身長の調子がわるい

筆はきまぐれ

連絡の旬

 

後輩と連絡をとってたらいつの間にか一緒に音楽イベントに行く流れになっていた。

5月に横浜の赤レンガ倉庫でやるらしい。

Vaundyを生で聴けたらそれだけで満足だなと思ってる。

 

最近、いろんな界隈で今年度のイベントがボチボチ決定され始めた気がする。

たぶん、ちゃんと政府が決めたガイドライン的なものに従って席の間隔だとか換気だとか設定されてるだろうから、過度に心配することはないんだろうけど。

ただなんていうのかな、どこかにうっすらと後ろめたさ、罪悪感みたいなものを感じる。何に感じてるんだろう、誰に感じてるんだろうか。

 

なんか上手く言葉に出来ないんだけど、そうやって自分で自分の首を絞めるような集団心理は何も生まないし、ちゃんと意識して選別していくべきだと思う。

 

 

公務員の友達はそういうの本当に厳しいって言ってた。

久しぶりに連絡とって「生きて帰ってきたら連絡くれや」って言っておいた。

親友って言い方はなんか気が引けるからわざわざ使おうと思わないけど、一番緊張せずに会話ができる存在。大事すぎる。

 

 

 

4月は人に連絡を取ることに関してタガが外れる。

 

食べ物は旬の時期に食べた方がいいし、人には旬の時期に連絡を取った方がいい。

 

 

服が似合う

 

 

人は、「その服似合うね!」と言われると嬉しい。

 

この嬉しさは何に起因しているのだろう、と突然気になったというだけの話です。

 

 

 

僕の場合、他人に「服似合ってるね」と言ってもらえたとき、服が褒められたというよりも自分が褒められた感覚がある。

顔がいいね、声がいいね、などと同じカテゴリーの喜び。

 

 

服を褒められることで自分自身が嬉しく思うのは、「自分に似合う服を選ぶことが出来る能力」を認めてもらえるからだろうと思ってた。

しかし、じゃあ自分で服を買おうと思った時に(自分に似合う服を探さなきゃ…)といった気持ちで買っているかというと、別にそういうわけでもない。

 

 

僕はいつも、街中を歩いている赤の他人やオシャクソインスタグラマーの投稿などを見て、欲しくなった服をガンガン購入検討リストにぶち込んでいる。

自分に似合うかどうか考慮することなく、まずは自分がカッコイイ!と思うかどうかでとりあえず情報収集している。

もちろん、脳死でカッコイイ!と思った中にはどう転んでも自分に似合うわけが無いファッションもあって、さすがにそういう時は渋々スクリーンショットを消したりもする。

ただ、基本的には「自分が自分に着せたいかどうか」を基準にファッションを組み立てているらしい。

 

そうなると当然、ちょっと背伸びした服を着る機会も多い。

背伸びした服を着るとき、僕は服に合わせて背伸びした振る舞いをすることがある。

 

「キャラ作り」とまではいかないくらいのキャラ作り。

少し入り辛かった喫茶店に入ってみたり、歩く時両手をポケットに突っ込んでみたりする。

似合っている人間の「モノマネ」をする感覚に近い。

 

ちなみに、以前実家に帰った際に同じような話をしたら、弟はこれを「コスプレ」って呼んでいた。

 

 

こういった「背伸びした服を着るだけの器がある人間のフリ」を続けていたら、段々とそういう人間になってきた。

アイスコーヒーはブラックでしか飲まないし、ファスナーを口元まで上げて顔をうずめる癖がついた。

おかげさまで「似合うね」と言ってもらえる機会が増えた気がする。

 

 

 

これは、

似合う服を選んだ、というよりも

好きな服を着るために自分を似合わせた、という表現が適切だと思う。

 

他人に「似合うね」と言われて嬉しく感じるのは、その言葉が、これまでのブランディングが成功していたことを知らせるフィードバックになるからかもしれない。

 

 

 

 

自分に似合う服を選ぶ経験は乏しいままなので、

顔の造形や身体の骨格を分析する等の能力はほとんど身についてないんだけど。

 

一方で、この服を着る人間はこういう行動をしそう、というイメージ(偏見)はかなり湧くようになった。

 

 

 

 

自分の変化が「コスプレ」によるものなのか、それとも単なる成長によるものなのかは正直よく分からない。

自分が似合っているのかどうかも、未だに他人に判断してもらわないと不安なままだし。

 

ただ、「服が似合う」ためには

似合う服を買うこと、だけでなくて

服に合わせて暮らしや性格をアップデートさせること、もひとつの選択肢だったんだなという気づきでした。

 

 

 

 

 

 

 

なんか総じて「僕お洒落なんで。」みたいな物言いになってしまいましたが、そんなつもりは無いです。

僕の身長が167cmしかないことに免じて許してください。

 

 

ではまた。

 

 

自分のこと喋ろうとするだけで涙が出るバグ

 

 

 

自分がいいねしたツイート達を定期的に見返す癖がある。

 

一旦キープするためにいいねしておいたツイート達を思い出すためという真っ当な理由と、

単に好きなツイートをもう一度読み直してニヤニヤしたいという気持ち悪い理由とがある。

 

後でまた考え直したいから「ちょっと待ってね」の気持ちでいいねしておくことも多い。

 

いずれにしても、いいね欄には"何か心に引っかかったもの"だけが溢れているので見返すのがとても楽しいのである。

 

 

 

 

 

「自分のこと喋ろうとするだけで涙が出るバグ困る」といってる人がいた。

 

 

すごくわかる。

 

小さい頃、母親に怒られているときに何か反論しようとすると涙が溢れてきてしまうのがとても嫌だった。

 

学校の教師に注意されている時も、言い返したいことがあるのに一緒に涙も出てきてしまいそうで言えなかった。言い訳でもなく正しいことを言っているはずなのに、声が震えてくるのだ。

 

 

最近はといえば、酒が入って何か自慢しようとした時にすーぐ目がうるうるするようになった。

 

うちの弟のこういうところは兄として尊敬してるんだよね、みたいな話をしたいだけなのに、勝手に感極まってる人間になってしまう。

 

自分のこと話してるのに感極まってるやつ、なんかヤバそうじゃん。

 

 

 

単に涙腺が緩いって訳でもないんだよな。

 

強い意見や主張が喉を通ろうとするとき、特に、涙腺のスイッチに触れてしまう身体になった。

 

通るもの自体のプラスマイナスはあんまり関係なさそう。

 

 

日頃、意見・主張を発言しないことが原因なんだろうか。それとも先天的なものなんだろうか。

 

 

自分のことを喋ろうとするだけで涙が出る人間、たぶん感情を露わにするのに慣れてないんじゃないかな。

 

 

こういうことを言うと「もっと自分を大切にして欲しい」みたいに言われることもあるけど、たぶん外的ストレスから身を守るために進化した結果なんだと思う。

 

というか自分の感情をブチ撒けられることが本当に自分の幸せなのか?

 

謎は増えるばかりである。

 

 

 

 

ではまた。

ずるずる

 

 

 

 

こんばんは、誰に見せるわけでもなくブログを書き溜めている人間です。

 

 

高校2年生?の頃からTwitterで呟き続けているんだけど、その頃からFacebookだけは絶対にやりたくねぇなという強い気持ちがある。

「顔出しの風潮がある」「みんなフルネームで登録してる」みたいな、なんて言うんだろう、すごくプライベートな部分のコミュニケーションを必要とされるから無理なんだと思ってた。

ただ、それだけでもなかったらしい。

 

 

Twitterってどこまでいっても閉鎖的で、その名の通り一人で「呟く」ことが許されている空気がある。

見ている人もそれをわかった上で覗いている。

いいじゃんと思ったら思ったなりのアクションを起こす。

特に可も不可もなければスルーする。

アカウントひとつひとつの感情が一番シンプルに等身大で表現されてると思う。

 

一方、Instagramを見てると「何かを情報発信したい人」が多くてビックリする。それだけ、Instagramで情報収集をする人が多いってことなんだろう。

元々SNSってそういうものなのかもしれない、ソーシャルなネットワークだし。

でも他人に何か伝えることで満たされる感覚が分からないな。

 

 

 

ラーメン垢作れば?って友達に言われて、こんなことを考えてた。

食べたラーメンを誰かに見せびらかす事は好きなんだけど、味、評価、場所、値段、その他諸々の情報をまとめて不特定多数にオススメできるほどのエネルギーは持ち合わせてないんですよね。

というかオススメすることで得られる幸福が無い。

 

自分がうまいものを食べたいという気持ちはある。

ただみんなにうまいものを食べて欲しいという気持ちは正直無い。

無いというか、好きにすればいいと思う。

 

 

すみません、前向きに検討させていただきます。

 

 

 

 

 

そう思うとやっぱり、☆(お気に入り)ってめちゃめちゃ閉鎖的でエゴイズムを感じるいいシステムだったと思う。

 

インターネット老人会より

 

ではまた

誕生日こわい

 

 

 

考えてみたら、「人の誕生日を祝う」には色んなプロセスがある。

 

誕生日を覚えておく。(無理)

適切なタイミングで思い出す。(無理)

相手が喜びそうなプレゼントを買う。(無理)

場をセッティングする。(無理)

プレゼントを渡す。(無理ではない)

 

最初の誕生日を覚えておく段階でもう詰んでる。

年号とか電話番号とか背番号とか、意味の見えてこない数字の羅列を昔っからどうしても覚えられない。

女の人と付き合うたびに毎年必ず誕生日付近で揉めるので、実はかなりトラウマになっている。

 

過酷すぎる。

世の中のたくさんの人達が息するようにサプライズしてるの本当にすごいと思う。

 

MBTIっていう、性格分析の一種にどっぷり浸かってる友人が僕のことをよくサンプルとして扱うんだけど、彼女曰く、人の気持ちを推し量るなんとかっていう能力が圧倒的に欠如しているらしい。

相談に乗ったり共感したりする能力。

そのおかげでいつもAI呼ばわりされるけど、まああながち間違ってはいないので別に悪い気はしない。

好きに呼んでくれ

 

 

 

今年4月、三男に大学入学祝いと誕生日を兼ねて何か買ってやるぞ〜と声をかけて未だに何も買ってあげてないことを思い出した。

 

我が家は受注生産制なので、贈る側が予算を提示して、基本的にその範囲内で受け手が欲しいものをポンポンとピックアップする。

ただ、予算といってもだいたいの目安なので超えてしまっても問題は無いけれど、その場合は買ってもらう側のプレゼンが必要になることが多い。

こうこうこういう理由で、ここがカッチョよくて、ここが他とは違う所で、だから僕はこのアイテムが欲しいんです。というプレゼン。

 

こんな家で育ってきたので無駄なお金を払うことに人一倍敏感なわけだけど、普通の家は違うらしい。

まあでも今になって思うと、欲しいものを全て買ってもらえる家 と 欲しいものを何も買ってもらえない家 の間をとっていてすごく丁度よかった。

 

 

ではまた

 

人狼

 

いつものようにインスタのストーリーを死んだ目で眺めていた。

最近はみんなモニター越しにオンライン飲み会を開催しているらしい。

自分の周りではそんな話は持ち上がってこないので、実は神話かなんかの類なんだと思う。

 

中でもZoomを使ってオンライン人狼している人がいて、思い出したことがある。

 

そういえば人狼が苦手だった。

 

 

 

僕もまだ友達がいた頃には数人でワイワイと人狼で遊んだ記憶がある。

別にボロ負けしたわけでもないし、嫌いな人が輪の中にいたわけでもない。

ただ、どうしてかあまり気持ちのいい思い出ではなく、いま人狼をしようと言われてもやりたくない。今どんなに仲のいい友達に誘われても、たぶん丁重にお断りすると思う。

 

 

他にもそういう人いないのかなと思って調べてみたところ、案外少なくないらしい。

主な理由は、「ルールが複雑」「怒られた経験がある」「殺されると暇」とか。まあ、わかる。

けどそういうところじゃない気もする。

もっとこう、なんていうか、心の奥の方にたまるタイプの粘度の高い心地悪さ。

 

 

「声の大きいやつが有利」

あーそれだ、と思った。

 

 

偏見だけど人狼、やってることが演出上の合法的なイジメじゃん。

発言力のある人間がニュートラルな立場の人間を吸収していく流れ。数の暴力で一人を追い込んでいく空気。1ターン目のまだ何の確証もない段階で決まった人間を狙い撃つ暗黙の了解。

ゲームに勝つためにはイジメに加担しなければいけない、そんな雰囲気がある。

声が小さくて頭のいい人間よりも、頭が悪くて声がでかい人間のほうがゲーム強そうだし。

 

 

あとは、ゲームに勝つために周到な嘘を付く、ってのもなんだか気分が悪くなる原因かもしれない。

相手を騙したもん勝ちというルールの中で正々堂々と戦ったことがない。自分が陸上競技にしか浸かったことがないからだろうか。

ストレートの腕振りでフォークボールを投げたことはないし、スマッシュすると見せかけてヘアピンショットを入れたこともない。軽く転ばされただけでめちゃくちゃ痛そうに演技したこともないし、相手のピッチャーを汚い言葉で罵倒して動揺を誘ったこともない。

それぞれ、基本、ルールの範囲内で自分が勝つために全力で取り組んでいるんだから真っ当なやり方なんだと思う。ものによっては好きじゃないけど。

そういう経験が無さすぎるせいで、姑息な嘘にやたら神経をすり減らすのかも。

まあ、ゲームに入り込めていないだけと言われたらそれまでなんだろうけど。

 

 

人狼、社会だった。

人狼が強いひとは社会を生き抜くのが上手そう。

 

 

それでは

忙しいって何

 

「忙しい」って難しい。

 

「最近どう、忙しい?」って久しぶりに会う人から聞かれる度に思う。

 

忙しいって相対的なものだ。

自分の中でまあまあ忙しいほうだなーと思っていても、きっと自分より仕事が詰まっていても忙しくないと感じる人はいるし、逆に自分より休みが多くても忙しいと感じる人はいる。

となると、他人の言う「忙しい」に耳を傾けることは無駄に思えてくる。

その「忙しい」がどれくらい忙しいのかなんてわからないし。無理に聞き出したところで、自分からするとあんまり忙しくない程度だったりしたら相槌に困る。

 

でもみんな忙しいって言葉が好きだ。

なんで皆こんなに主観にまみれた基準もクソもない言葉が好きなんだ?

 

頑張っていることを認められたいのかな。

頑張っていることを他人から認められたい人が使う言葉なのかもしれないな。

「うわぁーそれはそれは、お疲れ様です。」の一言が欲しいんだろうな。

 

なんかあんまり好きじゃないな、この言葉。

 

「最近どう、忙しい?」って他人に聞かないようにしようと思った。

 

以上