身長の調子がわるい

筆はきまぐれ

原体験

 

むかし、高校の友達の実家にお邪魔したことがある。高三の文化祭に向けて映画を撮っていた時期だった。

 

何人だったかな、男女5~6人くらいでドタバタとお邪魔したんだけど、当然実家だからその友達の家族もいて、その日はお母さんと弟くんがいたんだっけな。

その弟くんと、まあ家のリビングやなんかで撮影してるわけだから否応無く顔も合わせることになって、素っ気なく挨拶してくれたんだ。

向こうからしたら、許可したとはいえ4つも5つも年上の人達が大勢家に上がり込んできてドタバタやってんだからそりゃ緊張もするよね。

中学生から見た高校生、めちゃめちゃ大人でめちゃめちゃ怖いもん。

 

でもなんか気付いたら仲良くなってた。

いや、正確には仲良くしてたらしい。知らない間に。

 

撮影場所に実家を提供してくれた女の子曰く、一緒にいた一人っ子の男子はどう話しかけていいかわからずオロオロしてたんだけど、僕は自然と距離を詰めていったらしい。

 

今思うとそれがめちゃめちゃ嬉しかった。

そういうさり気ないところ観察できてしかもサラッと褒められる人、すごい。

今度あったら感謝の気持ち伝えておこうと思う。

 

 

今の活動もこれが原体験になっているんかなあと思った話でした。

 

 

「無」

 

 

 

深夜にそろそろ寝ようかなーと思ってるのに、ふと急に今の自分が何秒息止められるのか気になって眠れなくなってしまうこと、あるよね。

そんなときの話。

 

息止めてじっとしている時って、頭の中に「無」を作ってるなあって思った。

余計なことを考えてると、それだけで頭が働いてエネルギー使ってしまいそうだからかな。

脳みそをの電源ボタン長押しして強制シャットダウンさせてるような感覚だ。

 

考えてみたらこれ、眠くないのに無理やり寝ようとする時にもやってる。

はじめは瞼の裏側の暗闇を見つめて、だんだん奥へ奥へと進んでいく感覚なんだけど、どこかで「無」にぶつかって前に進めなくなる。

みんな同じようなことやってると思ってたけど、そうでもないらしい。

 

空(くう)を見つめてぼーっとしてる時も、何か考えてるんだと。

いわゆるランナーズハイん時も、何かを考えてるんだと。

そうなると傍から見たら同じハイでも全然違ってくる気がするな。

 

 

さらに考えてみるとこの「無」、自分の感情コントロールにも一役かってるなと思う。

外部からメンタルを害されそうになった時、心の「無」を作り出すことで苛立ちや嫌いな気持ちを消滅させること、よくある。

こっちは笑いそうになった気持ちを噛み殺すときの感覚に近い気がする。

 

 

こんなことばっかりしているから、周りから人がいなくなっていくんだろうか。

 

やっぱり人と人とはネガティブなコミュニケーションで繋がっているんだなあ。

 

 

プロメア

 

先日、生まれてこの方初めて映画館に同じ映画の2度目を観に行った。

 

宣伝を一目見るだけで明らかなんだけど、グレンラガンキルラキルの作者が手がけたということで、1回目からめちゃめちゃ期待して観た。

 

おもしろい。

いや、美しい。

映像と音楽で得られる感動体験の最高峰。

始めから終わりまでジェットコースターに乗ってるみたい。

 

なんてそんな感想レポートが書きたいんじゃなくて、2回観たことがニュースなの。

 

これから先どんな映画を劇場で2回観ることになるかわからないが、何を2回観ても(初めて2回観たのはプロメアだったなあ。)と思い出すと思う。

2回観たからこそわかる伏線や設定、カット、そういうものも記憶には残るけども、今後の人生常に抱えていくものではないでしょう。

僕の映画人生の第2章が始まったと言っても過言ではない。

 

まあそんなこんなで、

観た映画についてこと細かに語るのは得意では無いので控えるけども、ほんとにいい映画だった。

 

 

最後に、2回観た僕が映画中最もエロいと思うセリフを置いておきます。

 


「リオ・フォーティアだ。一度聞いたら覚えろ、ガロ・ティモス。」

 

以上です。

 

 

 

 

7/21 定例会

 

高校の同級生とご飯に行ってきた。

3年間クラスが一緒でいろんな点で影響を受けている人。

 

僕はお酒を飲むと自分のことを話すのが楽しくなっちゃう人なのだけど、話すこと何から何まで全肯定してくれるので感極まって泣いちゃうかと思った。愛かな。

 

僕の周りには相方全肯定マンが多い。

恵まれている。

全肯定してもらう度に、帰り道、これをまた誰かに還元させなきゃなと思う。

 

次はいつだろう。

 

正多角形

 

 

ツイートの引用ができるようになった。成長を感じる。

 

 

昔から「特技はなんですか?」の類の質問にめちゃめちゃ悩んでしまう。

自己肯定力が死ぬほど高いので人に比べたら長けてるだろうなと自負しているポイントはたくさんあるのに、”特技”ってほどではないよなあ、、と尻込みしてしまうんですよね。

 

最近になってやっと、特別な技術があるかどうかというよりも特技と言い切る力の方が大事なんだということに気が付いた。

 

 

それもこれも元はと言えば学校教育のせい。

 

小中高と何事にも全力で取り組み苦手は極力克服し常に上を目指し続けろと言われ、忠実に従った結果、中学の最終成績がオール5の人間が出来上がったんです。

 

でも社会に出ようとすると「学生時代に力を入れたことは?」みたいなことを、さも誰しも何か抜きん出ているものがあるかのように聞かれる。

 

ひどい話じゃないですか。

嫌いな授業は内職して自分の好きなことを勉強し続けてきた人の方が偉いみたいな言い方する。

それならそれで最初っから言ってくれよな。

 

 

これだから就活は嫌いです。

 

してないけど。

感動の解像度

 

2016年夏に映画を見に行った時の話が下書きに入ってた。

 

 

君の名は。見てきました。

新海誠監督の作品には「秒速5センチメートル」の頃からお世話になっていて、空に雲に敏感になったのは新海誠的英才教育を受けてきたせいだと思う。

秒速五センチメートル、一年に一度くらい深夜帯に再放送しているので絶対に見てください。

 

そんなことはどうでもよくて、映画を見終わって劇場を後にしてポップコーンのゴミやらを捨てながらぞろぞろと映画館を出ようとする。

 

そこでガヤガヤと感想を述べ散らかす人がどうしても苦手。

 

映画に限らず絵や音楽、人に感動を与え得るもの全般に言えることだけど、そういった作品には作品自体にしか与えることのできない鮮明な感動があって、一方で人が言葉で表現できる感動には限界があって。

それは感動の量とか色とかではなく、解像度じゃないかなって思う。

作品を見た人が思い思いに感想を述べているとき、感動はその人を通してぐっと解像度が落ちてしまっている気がしてならない。

感想を聞かされてる人も同じ映画を見たならまだ救いようがあるけど、もし見たことない人に話してるとしたらもはや海賊版じゃないか。

 

この動画おすすめ!っつってYouTube開いて180pで熱く語ってるみたいなものだから。

 

最高の映画に対して最高の評価を表現できるのはインプットした感動をひたすら噛み締めることなんじゃないかなあと思った話。

 

 

すーぐ人のこと嫌いって言う。

 

初めまして

 

aobaobaです。

 

大好きな高校時代の友人が始めてくれたら見るよ、と言ってくれたので書きます。

あとはあれです、通信制限にかかり他にやることが無いからです。

 

無数にある下書きツイートの供養、またはTwitterの延長線上として書いていくつもりなので、質は低いと思います。ご容赦ください。

 

ある程度貯まったら公開する予定。

細々とやっていきます。

 

よろしくお願いします。