服が似合う
人は、「その服似合うね!」と言われると嬉しい。
この嬉しさは何に起因しているのだろう、と突然気になったというだけの話です。
僕の場合、他人に「服似合ってるね」と言ってもらえたとき、服が褒められたというよりも自分が褒められた感覚がある。
顔がいいね、声がいいね、などと同じカテゴリーの喜び。
服を褒められることで自分自身が嬉しく思うのは、「自分に似合う服を選ぶことが出来る能力」を認めてもらえるからだろうと思ってた。
しかし、じゃあ自分で服を買おうと思った時に(自分に似合う服を探さなきゃ…)といった気持ちで買っているかというと、別にそういうわけでもない。
僕はいつも、街中を歩いている赤の他人やオシャクソインスタグラマーの投稿などを見て、欲しくなった服をガンガン購入検討リストにぶち込んでいる。
自分に似合うかどうか考慮することなく、まずは自分がカッコイイ!と思うかどうかでとりあえず情報収集している。
もちろん、脳死でカッコイイ!と思った中にはどう転んでも自分に似合うわけが無いファッションもあって、さすがにそういう時は渋々スクリーンショットを消したりもする。
ただ、基本的には「自分が自分に着せたいかどうか」を基準にファッションを組み立てているらしい。
そうなると当然、ちょっと背伸びした服を着る機会も多い。
背伸びした服を着るとき、僕は服に合わせて背伸びした振る舞いをすることがある。
「キャラ作り」とまではいかないくらいのキャラ作り。
少し入り辛かった喫茶店に入ってみたり、歩く時両手をポケットに突っ込んでみたりする。
似合っている人間の「モノマネ」をする感覚に近い。
ちなみに、以前実家に帰った際に同じような話をしたら、弟はこれを「コスプレ」って呼んでいた。
こういった「背伸びした服を着るだけの器がある人間のフリ」を続けていたら、段々とそういう人間になってきた。
アイスコーヒーはブラックでしか飲まないし、ファスナーを口元まで上げて顔をうずめる癖がついた。
おかげさまで「似合うね」と言ってもらえる機会が増えた気がする。
これは、
似合う服を選んだ、というよりも
好きな服を着るために自分を似合わせた、という表現が適切だと思う。
他人に「似合うね」と言われて嬉しく感じるのは、その言葉が、これまでのブランディングが成功していたことを知らせるフィードバックになるからかもしれない。
自分に似合う服を選ぶ経験は乏しいままなので、
顔の造形や身体の骨格を分析する等の能力はほとんど身についてないんだけど。
一方で、この服を着る人間はこういう行動をしそう、というイメージ(偏見)はかなり湧くようになった。
自分の変化が「コスプレ」によるものなのか、それとも単なる成長によるものなのかは正直よく分からない。
自分が似合っているのかどうかも、未だに他人に判断してもらわないと不安なままだし。
ただ、「服が似合う」ためには
似合う服を買うこと、だけでなくて
服に合わせて暮らしや性格をアップデートさせること、もひとつの選択肢だったんだなという気づきでした。
服、本当に似合っているかどうかよりも似合っていると思われるためのキャラを確立させる方が重要な気がする
— aobaoba (@aobaoba523u) 2021年3月21日
なんか総じて「僕お洒落なんで。」みたいな物言いになってしまいましたが、そんなつもりは無いです。
僕の身長が167cmしかないことに免じて許してください。
ではまた。